#7 幸せな逡巡

最近、とても好きな曲がある。

井上陽水の「覚めない夢」という歌。
歌い出しはこうだ。
 
あなたを好きになれば幸せになれるかしら
おそらく なれない
私がまだ知らない夢に連れ出してはくれるけど

 

 
そして二番の頭にはこう来る。
 
あなたとお別れして幸せになれるかしら
おそらく なれない
私はもういろんな夢をあなたと共に見たから

 

 
旅から帰る車の中で
「最近この曲がすごく好きなんだよねー」というと、
助手席に座る後輩は
「めっちゃ切ないっすねー」としみじみ言った。
 
ああ、そうか。
普通はそう思うな。
そう思って私は黙っていた。
 
でも本当のところ、どっちを向いても幸せではなく、
でもどこか幸せに近いものを感じてしまって
ずっと逡巡している一人の人間を、
私はすごく素敵だなと思った。
こんな関係性を誰かともてるなんて、そんな幸せなことはないではないか。
 
人と人との間に、絶対的なものなど何もないと私は思っている。
というと世の中のあらゆる夫婦に怒られてしまいそうだが
言いたいのは、約束、という人間社会の証文よりも
井上陽水が歌う「魔力」のような、えもいわれぬ引力の方がずっと
私たちが誰かを思う真実ではないか。
 
それはべつに恋愛感情に限らない。
親友と呼べる人、一度もあったことすらない憧れの相手、無二の戦友、
どこか不思議な距離感を保ちながら、お互いに、お互いの勝手な思いを抱いて向き合って
結果、お互いのあいだに何かしら正の関係性を生んでいる。
人と人の関係などそれでいいのだと、むしろそれが理想なのだと思っている。
 
私はこう思っているのに、あなたはなぜ?
なんてどの口が言うのだろう。
私がどんなふうにあなたを思っているかなんて、到底あなたには分からない。
あなたがどんなふうに私を思ってくれているかなんて、到底私には分からない。
 
陽水はこうも歌う
 
あなたを夢に見ればよろこびは続くのかな
おそらく続かない 私はまだ未来の夢を描き切れていないから

 

 
そう、全ては私の中の世界なのだ。
その小さく広い世界の中で、幸せな逡巡を繰り返すこの人を、
私は心からうらやましいと思うのだ。

#6 富士山の七合目で見えたもの

今年も富士山に登る季節が近づいた。
台風の襲来をくぐり抜けて予定通り、今年2回登れば、もはや14回の登山となる。
 
富士山は特別かと問われると、確かに特別だ。
悔しいかな、特別なのだ。
 
富士山にはじめて登ったのは社会に出てからのことで、それ以来すっかり山に登るのが習慣になった。
気が付けば「位置エネルギーの無駄な消費に過ぎない」と否定していたスキーすら始めるようになり、
すっかり「山づいた」。
泳ぎはしないまでも、海を眺めることも相変わらず好きだったが、
やはり山にたびたび訪れるようになってから、海の見え方も変わったように思う。
もしくはキューバで見た、カリブ海のおそろしく美しい海を見てから変わったのかもしれない。
いや、おそらく25歳の時に見た富士山のご来光が最も私が自然とこの世の中を見る目を変えたように思う。
 
何ということはない、晴天に恵まれたいつもの御来光だった。
景色が美しいだけならば、他の年の御来光の方を紹介したいところだが、
あの時私が気付いたのは御来光の美しさではなく、
昇った太陽の光があっという間にこの世を照らしていく、その朝の一瞬の出来事の素晴らしさだった。
 
何とも筆舌に尽くしがたいのだが、冷たい夜の帳が次第に明るさを取り戻し始め、
ゆっくりと空の青が薄まっていくと、とうとう太陽が雲海から頭をのぞかせる。
ここで富士登山客たちは万歳三唱となるわけだが、世界で起きることはその後がすごい。
 
始めは皆が感動の目で見つめていた太陽のひとかけが、
びっくりするくらいあっという間に全ての姿を現すと、すぐに人の目では直視できないほどの明るさとなり、
あれほどに冷たかったあたりの空気はぐんぐんと温度を上げていく。
御来光を待つ間に冷え切って震えのとまらなかった私の体を、拒みようのない力強さでじわじわと温めていくのだ。
もう少し夜と昼の狭間の感傷に浸っていようと登山道わきにしゃがみ込んでいた私を、
否応なく「昼」の世界へと引きずり込む力強さは、暴力的にすら感じられたほどだ。
 
これがこの星の根源的な節理なのだと恐れ入るしかなかった。
幾度となくこの世は太陽が昇り沈むことを繰り返し、それが生命を生み、
私たちの暮らす「世の中」を作り上げるに至った。
世界中にあふれる太陽信仰も、さもありなんと納得した。
これこそが何物にも代えがたいあらゆるものの源であり、
高校の頃、クリスマス礼拝のキャンドルサービスで感じた、ほの暗い講堂の中の明るさと温かみなど足元にも及ばない。
刹那的な美しさはキャンドルサービスの方が上回るかもしれないが、
しかしそういったものを超越する、絶対的な「美しさ」があるように思えた。
世の中とはかくあれかしと、我々の与り知らぬところで定められているかのようだ。
 
私が「自然」と凡庸に呼んでいたものの実像を自分の中でつかみかかった時が、まさにこの時だった。
忘れもしない、富士の須走登山道の七合目での出来事である。
 
富士山を登り切った達成感とも、頂上に立つことの感慨とも関係ない、
純粋に、自然というものと(たまたま)向き合った結果だと、私は勝手に思っている。
 
たまに、夜も明けきらぬころから車を出して
じわじわと夜が明けていく風景を眺めるに、この時のことを思い出す。
喜びや安堵や恐ろしさややるせなさがない交ぜになった感情が襲う。
 
言っておくが、富士山に登ったくらいで人生は変わらない。
ただ、それまで知ることのなかった感情の存在を知るという、大いなる変化はある。
気付くか気付かないか、いや、見ようとするかしないかは、本人次第だ。
 
とりあえず、私が見たものを誰かにも見てほしいと思って、でもあまり期待はしていないが、
今年も2回、富士山に登る。

#5 gigiのように世界を感じてみたいと思えて仕方ないこと

Gigi Ruf、といっても、ほとんどの人は知らないに違いない。

それなら、とりあえずこれでも見てもらうか。
 
 
スノーボードのDVDを見出したのは、2008年くらいのことだろうか。
東京ドームでのX-TRAIL JAMの最終年だと思う。
(あれはたしかにクレイジーなイベントで、最高だった!最後の最後に行けて良かったが、
別にボードに何の興味もないのに、体よく連行された友人のタモには災難だったろう)
そのころはTravis RiceやShaun Whiteが好きで、いろいろ買い漁っては、家でダダ流しにしていた。 
That's It That's All (ザッツ・イット・ザッツ・オール) 輸入版 [Blu-ray]

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 でもこのシーンをOverseasというDVDで見た瞬間、圧倒的にGigiが大好きになった。

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さすが、探してみるとポスターにまでなっている1枚。
(が、ヨーロッパのボードDVDってレアで、もはやAmazonにもYoutubeにも存在しない逸材。
自分でもよく購入できたものだと思う)
 
 
Gigiを見ていると、とても不思議な感覚に襲われる。
まるで重力が存在しないような、方位も定かでないような、
そのなかでGigiの意志だけが自由に世界を泳いでいるような、そんな感覚。
 
そんなGigiをしばらく眺めていると必ず、彼の目で世界を見たいという思いが湧き上がる。
でもそれは彼の視野を獲得したいということではなく、
身体性そのものを感じたい、ということに近い。
体に受ける風、手に触れる雪の冷たさ、耳元でする空気を切る音。
斜面を踏み切る脚、大きく広げた腕、その度に筋肉が収縮する感覚。
着地するとともに全身の関節にぞわっと感じる重力。
 
Gigiが滑る映像を見つめながらそんな様子を勝手気ままに想像すると
視覚情報が人の受ける情報のほとんどだなんてウソだと思う。
仮に見た目で脳がだませても、身体はだませないと思う。
 
Gigiの身体で世界を感じたら、どんなだろう。
 
その身体性まで含めた感覚というのが
本来的な人間の感覚ではないかと最近思い始めている。
 
例えば仕事柄、展示会の設計をしたり、映像のディレクションをしたり
いろいろ関わったりするわけなのだけれど、
あまりに視覚ありき、しかも近視眼的な視野設定で判断をされることが多い気がする。
ふとした心の揺らぎを創り出しているものが何なのか、ということに対して
とても認識の仕方が雑な気がするのだ。
全身の皮膚感覚、下手したら第六感まで含めて、
膨大な数の人間の「受信機」を相手に、きちんと勝負しているのか? と問いたくなる。
 
もちろん戦略的に見ないふりをする、っていうのはよくある話で。
でもやっぱりそれもどうかと思ってしまって、一人悶々とする。
 
TV世代だからなのか、スマホ世代だからなのか
3次元世界に対しての感覚が、弱まっているような気がする。
3次元を超える、情報という名の膨大なカオスがあることには慣れているのに
空間と時間軸というベクトルで構成されている世界に、自分がどう相対しているのか、
分からなくなってしまったように見える人にたくさん出会う。
 
人間がそういう進化を果たしてきたのならば、
この議論は人類社会にとってあまり有益なことではないし、
解明をすることはまた、不正確な定量的議論を呼ぶだけだから
「でもそういうことだよね?」と訴えたいだけなのだけれど。
 
Gigiがいなければおそらく、雪山に足を運ぶこともなかっただろうと思う。
彼のように世の中を感じることはできなくても、
とりあえず雪山の空気だけはめいっぱい、自分の身体に吸い込むことができる。
雪山の静謐さについては、また冬になったら述べようか。

#4 ブルーブルー

なんで、子どもはあんなに、大して悲しくもなさそうな顔で泣くことができるのだろう。

 
そういう一文で始まる短編を書いたことがある。
ひたすらやるせなさを感じる、現代の青年のとある一日を切り取った話。
だったはずだが、何せフロッピー時代の産物だからデータなんてどこにも残っていない。
 
ある日、私は電車で子供の泣き顔を驚きと共に見つめていた。
彼は大して悲しそうでもなく、むしろ真顔とでも言えるような顔で、
でも渾身の大きな鳴き声を発して泣いているのだ。
きっと、もう大して悲しくなくなっているのだけれど、
泣いた原因に対する不愉快さや、大人たちの対応に対する不満はまだ消えず、
意地のように泣くという行為を継続しているにすぎないのだろうと、私にだって想像がついた。
 
が、それにしても、変な泣き顔だった。
大人が思うような、誰もがさもありなんと分かり切った悲しさなどないのだとでも言うかのように
彼は真顔で泣き続けた。
 
その子供の泣き顔によって、悲しい、泣きたい、という
これまで知っていると思っていた感情の輪郭が捉えられなくなって
困惑する青年の物語がその場で生まれてきた。
なぜか、ブルーブルーというタイトルもその場で浮かんだ。
 
ただ、その事実ははっきりと思い出せても、その瞬間の瑞々しい感覚は、なかなか思い出せない。
 
感情の喪失への不安なんて、もはや感じないのではないのだろうか。
人は年老いていくごとに、感情を覚えないことに慣れていくのではないのだろうか。
 
そう思って、その時座っていたカフェのテラス席から周囲を眺めると
感情なんてどこにも転がっていないのではないかと思えた。
並びに座る、Surfaceと1時間以上向き合っているサラリーマン、
一所懸命に参考書をめくる大学生
たびたび足を組み替えながら本を読む女性
誰も、くすり、ともしなければ、しんどそうな顔をするわけでもない。
 
若者たちが集まる場所、例えばこの間久しぶりに歩いたセンター街だって
ずいぶんと薄っぺらい笑いばかりが交わされていて、分かれた途端にすぐに無表情にリセットされる。
 
開放的になりそうな飲み屋にいったって、ゲラゲラとアホみたいな笑い声と
会社のグチばかりが聞こえて、あとは死んだように眠って電車に揺られる男たちが残される。
 
これで主人公が感情の発露を探して何らかの旅に出る物語は書けそうだ。
行きつく先は、犯罪じみた人体実験か、新興宗教か、芸術か(つまりこれらは紙一重だということだ)
どうやったら彼が救われるのか、30を超えた今の私には、まだ思いつかない。
 
でも実際のところ、都市ってこんなにのっぺらぼうだったっけ。という疑問もあるのだ。
当然のことながらそれぞれの家の中に入れば、幸せな笑顔はあるだろうし、
電話が鳴った途端、本を無表情に読み続ける彼女の相好も崩れるだろう。
けれど、もっと自然に都市の中で生活することはできまいか、と思うのだ。
 
均質化する都市問題というのもあるだろうし、
都市機能の分化がもたらす影響もあるだろう。
 
時に、京都の観光地を回る日本人の表情を観察したことがあるだろうか。
多数に関して言えば、恐ろしいほど薄っぺらい。
感動なんてまるでそこにはないかのようで、気持ち悪くて帰ってきてしまったことさえある。
観光地で余暇を過ごす時ですらそうなのだから、日々の生活はさもありなん、となると
これは都市設計の問題なのか、日本人の問題なのか。
 

ボルドーのブルス広場に、水の鏡、というスペースがある。 

www.tripadvisor.jp

 

街の中心、ブルス広場に作られた公共空間でありアート。
水の鏡という名の通り、広場に湛えられた水が、街の建物をその水面に映し出す。
その水面で、子どもはもちろんのこと、大人たちもみな思い思いに遊ぶ。
 
 これはアート性を除いて議論をすると、ただ広場の一部を若干低くして、水を溜めただけだ。
すごくシンプルに、人の心を動かしている。
感情を呼び覚ますのに、アキュレイトでありさえすれば大した仕掛けは必要ないということだ。
 
だからといって主人公の彼に、新たな都市計画に挑まれても、物語としては全然面白くないので、
新興宗教にもDVにも走らず、シンプルなきっかけを発見して、
ハタと気づいてもらう結論を考えなければならぬ。
ただ思い出せるのは、そのハタと気づいた瞬間に彼を満たす心境を
「ブルーブルー」と、私が表現したということだ。
きっとベタに空でも見上げていたに違いないが、彼の心は間違いなく瑞々しい何かで満たされたはずだ。
 

 

シビックプライド―都市のコミュニケーションをデザインする (宣伝会議)

シビックプライド―都市のコミュニケーションをデザインする (宣伝会議)

 

 

#3 曰く、本屋は戦場であるということ。

本屋というのは本が買えればどこでもいいものではない。

デカければいいというものでもない。
その時に、こんな風に本を選びたいなぁ、という気持ちに寄り添ってくれる本屋が必要だ。
 
自分が求めているタイトルが最短経路で見つかる本屋。
仕事とか社会とか経済のことを思う時にヒントになる本屋。
自分のイマジネーションを自由にさせたい時に行きたい本屋。
自分の中に眠っていた思考のかけらを呼び起こしてくれる本屋。
などなど。
 
残念ながら4つの内、あとの3つが全て東京にあるから、
いつもおもーい本を抱えて飛行機に乗る羽目になるのだが
それで幸せな気分になるのだから、まあ仕方ない。
 
そういうことで、この間も9冊の本を抱えて東京から帰ってきた。
最近、買ったことを忘れないように写真に撮るという習慣をつけている。
 

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買ったのは言わずと知れた、代官山T-SITE。
ここは悔しいかな、本当に人をたらしこむように本を並べている。
狭いくせに、ここぞとばかりに本を置いている。
角を曲がるたびに「おおぅ」「なるほどぉ」「きたなぁ」と嘆息しそうになるほど、
(いや、きっと実際口に出ているのだと思う…)
興味深いワードが背表紙に並んでいる。
だから行くエリアを予め限定しておかないと財布の事情もさることながら、もはや持って帰れなくなる。
 
背表紙というのはかなり魅惑的な存在だ。
表紙というのは、デザインが尽くされており、まあさもありなんというものであって、
片や背表紙の言葉一つで本に惹かれるというのは、素敵な駆け引きだと思う。
すっかり顔を見せる表紙とは違い、背表紙というのは僅かに何がしかの気配を醸し出す。
姿形が定かでないならば、こちらもそれなりの覚悟を決めて、
背表紙に踊ることばに目を凝らさなければいけない。
ちょっとした戦いだ。
そうやっていると、武将が戦場の果てにで無二の友に出会うように、
われわれも本屋の片隅でいくつかの本と出会いを果たすこととなる。
 
出会えた、と思えたものは買わなければならない。
仮にすぐに読めないとしても、そのアンテナの立ち方は1回しかない。
翌週訪れても、同じ本が棚に並んでいても、同じようなアンテナの反応はないのだ。
だからその時に抜かりなく購入すべし。
 
結果、車で一緒に来てくれたOJ先輩が「ほんとにそれ持って帰るの」
とあきれ返る量の本を抱えて帰ることになるのだが。
 
第一回(というのかどうか)で書いた通り、何とも角のとがり具合に不足を感じることの一因に
圧倒的な読書量の低下もあるのだろうと思う。
時間がないのと、読む本の厚みが圧倒的に昔より増している、ということもある。
だからダイジェストが把握できると読むのをやめてしまうのだが、
それはそれで中途半端なメレンゲのように角がくるん、と下を向いてしまったりする。
 
そういえば、昔は読書感想文などと言われようものならば
本編を読まずして、あとがきや解説文を読むだけで、余裕で1000字ほどの感想文を書きあげていたものだ。
この本の背表紙だけで、コラムを1本書くようなものだ。
何故できていたかと言えば、頭の中で考えているテーマが恐ろしくたくさんあって、
あとがきの中の1フレーズでもどれかのテーマに引っかかろうものなら、
そのテーマに関して論じるだけで仕舞いだったからだ。
(読書感想文とは言えたもんではないが)
 
最近は、何だかたくさんの事象への関連性は感じながらも
今一つ、議論すべき焦点が明確になってこない。
情報量が増えているからなのだろうか。
 
いや、それも事実だろうが、何だか年寄りの愚痴の様相に見えなくもない。
やはり素直に鍛錬に励むべきか。
 
ということで、ゆるゆると宗教と都市計画と建築について考察を深めるわけだが、
それぞれの読書感想文(れっきとした)は追ってご報告ということで、
とりあえずすでに空きのない、春に増設したばかりの本棚を眺めて立ち尽くすのだ。
が、呆然とするのもつかの間、またその背表紙の連なりを眺めながらひとり、ほくそ笑むのだ。
 
が、そんな幸せもつかの間、とある本の続編が
近くのメガであることにしかとりえのない本屋に並んでいるのを発見し、
ひとまずそちらに注力することに方針転換。
こういう変更というのは、本屋では常にやむを得ない。

 

キャパへの追走

キャパへの追走

 

 

オランダの友人と1時間話した

ハリー、という友人がいる。
彼はオランダのEindhovenアイントホーフェン、というところに住んでいる。
 
誤解なきように初めに断っておくと、ハリーはれっきとした日本人だ。
 
彼は、一番町に中高6年間引きこもって暮らした私とは違い、
自ら思い立って高校からUKに留学をし、
しかしなぜか私と同時に某総合広告代理店に就職をし、
なぜか私と同じ大阪のラジオ担当部署に配属となった。
 
が、齢30を境目に(正確な彼の歳は忘れたが)よりやりがいを感じられる仕事へと転職して行った。
日本でいくつかの仕事を経験した後、半年前くらいから
ヨーロッパの拠点の一つであるアイントホーフェンに移っていった。
 
そんな彼が出張で、しかも大阪に立ち寄るというので、
いそいでつまらない出張から大阪にとって返し、駅前ビルのマヅラでビールをあおることとなった。
 
つまらない出張のせいで話せたのは都合1時間程度、深い話にはならなかったが、
話のトピックは様々なテーマへと次々に飛び移った。
 
オランダでの働き方、人事制度の考え方
WWⅡの後に復興した、オランダの街並みと日本の都市の街並みの違い
大阪都構想"騒動"とはいったいなんだったのか
などなど。
安保の話も少ししたかな。
 
たびたびトイレに立った割には、いろんな話をしたものだ。
つくづく、あの席がトイレに近くてよかったと心から思う。
 
それぞれのことについては、また改めて書く機会もあろうが、
しかしまあ、1時間でこんな話をできる友人は貴重だということだ。
議論まではできなかったが、お互いが思ったことはそれぞれにちょっとずつ伝えられたかなと。
 
別に政治家でなくとも、歴史学者でなくとも、建築家でなくとも
何気なくいろんなことを考えて、誰かと意見を交わして、また考えて
そんな風にしていかなければ世の中良くならんだろうと思う。
今はあまりに複雑な社会生態系が、様々な変数を内包して自走したりするから
何だか世の中前に向かって動いているように思うが
実はそうでもないんじゃないかと思う瞬間がふとある。
 
今、嬉野さんばやりなのでまた引くが、ネスカフェの企画で嬉野さんは
コーヒー文化がヨーロッパに入ってきた時代について、こんな風に書いていた。
 
その時ロンドンに入って来た珈琲とコーヒーハウスがヨーロッパにもたらした一番の衝撃は、「白昼、男たちが覚醒した頭で議論をし始めたこと」だったそうでございます。 

こんな言い方をされますと私も興奮するのでございます。 
だって今となっては「そんなこと別に驚くことじゃないでしょ?」というありふれた状況も、ひとっつも普通じゃなかった昔があったということを知る瞬間なわけですからね。 

確かに男たちは昔から議論好きではあった。けれどノンアルコールの珈琲が入ってくるまでは常に片手にワイングラスかビールジョッキを持っていて、激論のたびに酒をあおってしまうものだから、やがて皆一様に酩酊し始めて議論はいつも尻切れとんぼのぐだぐだになり、結局、最後には酒樽と一緒に汚物の中を転げ回って自己嫌悪とともに朝を迎えるということの繰り返しであったろうことは想像に難くない。 

それが今や珈琲のもたらすカフェインの作用で頭は終始ハッキリしたままで、男たちは議論を闘わせ続ける。 

他人の話を聞いてみれば、今までは自分だけの不満だと思っていたことが、他人も同じように不満と思っていたのだと知ることとなり、その不満をコーヒーハウスに集まって居る皆と一緒に口を揃えて言い募っているだけでも、なんだか我が身に力を得たような興奮が自然と湧き上がってくる。 

コーヒーハウスに集まってくる人間たちと王政を批判するうちに、いつしか社会の矛盾と法の不合理が明確になっていく。 
 
 
 
コーヒーってビビッドでかっけー、と思った。
今のスタバってだせー、と思った。
(便利に使わせて頂いていますよ、念のため)
 
マヅラでのハリーと私は、それなりにカッコ良かったんじゃないかと思う。
もう少しカッコ良くなりたいから、次までにちょっとオランダについて勉強しておこうと思う。
いや、ハリーが縁遠くなる日本政治にフォーカスしようか。
 
そうなると新聞を読むのが楽しみになる。
政治家を密かに志す友人と意見を交わすのが楽しみになる。
カフェに行くか、やっぱりビールを傾けるかは、それから考えれば良い。

取り急ぎ、始めるにあたって。

毒が抜ける、とか、角が取れる、とかいうのはよく言ったもので、

やはり人間、30代に足を踏み入れるとそんなことになってくる。
そうでもないと世の中を渡れなくなるのか、
生き物として生命力が低下して省エネ運転に移行してくるからなのか
そのあたりは定かではないが、何かしらの適応なんだろうと思う。
が、困ったことに、毒とか角とかいったものは、案外思考の媒介になるものであって
それが失われるということは、なにかと考えずに済ませてしまいがちになる、
ということでもある。
抵抗や衝突や振動が見事な地形を創り出すように、
流れというのはスムーズであれば良いということでもない。
物事を新たなレイヤーに持ち込んだり、
新たなパースペクティブを挿入したりというのは、なかなか熱量が要る。
いるなー、摩擦。ということになる。
 
それであれば、敢えて角を磨きだしたり、
毒素を精製したりみたいなことをやっていかなければならんと思いだす。
とある大好きな嬉野さんは、人には「心の水路を取り戻す作業」が必要なんだと言っていた。
嬉野さんもそう言うなら、始めてみるか―。ということになる。
 
社会人という身分で日々、思考の断絶に襲われながらも
何とかできそうなものをということで、ここを選んでみた。
主義主張を世の中に訴えたいわけではないから、どこかのSNSにも書きたくないし、
かと言って、自分だけの日記では手抜きが始まるに違いない。
とりあえずこっそりと、やすりを買いに行くように、アカウントを開設してみた次第。
 
と、とりあえず最初に書いておこうと思って。