#3 曰く、本屋は戦場であるということ。

本屋というのは本が買えればどこでもいいものではない。

デカければいいというものでもない。
その時に、こんな風に本を選びたいなぁ、という気持ちに寄り添ってくれる本屋が必要だ。
 
自分が求めているタイトルが最短経路で見つかる本屋。
仕事とか社会とか経済のことを思う時にヒントになる本屋。
自分のイマジネーションを自由にさせたい時に行きたい本屋。
自分の中に眠っていた思考のかけらを呼び起こしてくれる本屋。
などなど。
 
残念ながら4つの内、あとの3つが全て東京にあるから、
いつもおもーい本を抱えて飛行機に乗る羽目になるのだが
それで幸せな気分になるのだから、まあ仕方ない。
 
そういうことで、この間も9冊の本を抱えて東京から帰ってきた。
最近、買ったことを忘れないように写真に撮るという習慣をつけている。
 

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買ったのは言わずと知れた、代官山T-SITE。
ここは悔しいかな、本当に人をたらしこむように本を並べている。
狭いくせに、ここぞとばかりに本を置いている。
角を曲がるたびに「おおぅ」「なるほどぉ」「きたなぁ」と嘆息しそうになるほど、
(いや、きっと実際口に出ているのだと思う…)
興味深いワードが背表紙に並んでいる。
だから行くエリアを予め限定しておかないと財布の事情もさることながら、もはや持って帰れなくなる。
 
背表紙というのはかなり魅惑的な存在だ。
表紙というのは、デザインが尽くされており、まあさもありなんというものであって、
片や背表紙の言葉一つで本に惹かれるというのは、素敵な駆け引きだと思う。
すっかり顔を見せる表紙とは違い、背表紙というのは僅かに何がしかの気配を醸し出す。
姿形が定かでないならば、こちらもそれなりの覚悟を決めて、
背表紙に踊ることばに目を凝らさなければいけない。
ちょっとした戦いだ。
そうやっていると、武将が戦場の果てにで無二の友に出会うように、
われわれも本屋の片隅でいくつかの本と出会いを果たすこととなる。
 
出会えた、と思えたものは買わなければならない。
仮にすぐに読めないとしても、そのアンテナの立ち方は1回しかない。
翌週訪れても、同じ本が棚に並んでいても、同じようなアンテナの反応はないのだ。
だからその時に抜かりなく購入すべし。
 
結果、車で一緒に来てくれたOJ先輩が「ほんとにそれ持って帰るの」
とあきれ返る量の本を抱えて帰ることになるのだが。
 
第一回(というのかどうか)で書いた通り、何とも角のとがり具合に不足を感じることの一因に
圧倒的な読書量の低下もあるのだろうと思う。
時間がないのと、読む本の厚みが圧倒的に昔より増している、ということもある。
だからダイジェストが把握できると読むのをやめてしまうのだが、
それはそれで中途半端なメレンゲのように角がくるん、と下を向いてしまったりする。
 
そういえば、昔は読書感想文などと言われようものならば
本編を読まずして、あとがきや解説文を読むだけで、余裕で1000字ほどの感想文を書きあげていたものだ。
この本の背表紙だけで、コラムを1本書くようなものだ。
何故できていたかと言えば、頭の中で考えているテーマが恐ろしくたくさんあって、
あとがきの中の1フレーズでもどれかのテーマに引っかかろうものなら、
そのテーマに関して論じるだけで仕舞いだったからだ。
(読書感想文とは言えたもんではないが)
 
最近は、何だかたくさんの事象への関連性は感じながらも
今一つ、議論すべき焦点が明確になってこない。
情報量が増えているからなのだろうか。
 
いや、それも事実だろうが、何だか年寄りの愚痴の様相に見えなくもない。
やはり素直に鍛錬に励むべきか。
 
ということで、ゆるゆると宗教と都市計画と建築について考察を深めるわけだが、
それぞれの読書感想文(れっきとした)は追ってご報告ということで、
とりあえずすでに空きのない、春に増設したばかりの本棚を眺めて立ち尽くすのだ。
が、呆然とするのもつかの間、またその背表紙の連なりを眺めながらひとり、ほくそ笑むのだ。
 
が、そんな幸せもつかの間、とある本の続編が
近くのメガであることにしかとりえのない本屋に並んでいるのを発見し、
ひとまずそちらに注力することに方針転換。
こういう変更というのは、本屋では常にやむを得ない。

 

キャパへの追走

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