#4 ブルーブルー

なんで、子どもはあんなに、大して悲しくもなさそうな顔で泣くことができるのだろう。

 
そういう一文で始まる短編を書いたことがある。
ひたすらやるせなさを感じる、現代の青年のとある一日を切り取った話。
だったはずだが、何せフロッピー時代の産物だからデータなんてどこにも残っていない。
 
ある日、私は電車で子供の泣き顔を驚きと共に見つめていた。
彼は大して悲しそうでもなく、むしろ真顔とでも言えるような顔で、
でも渾身の大きな鳴き声を発して泣いているのだ。
きっと、もう大して悲しくなくなっているのだけれど、
泣いた原因に対する不愉快さや、大人たちの対応に対する不満はまだ消えず、
意地のように泣くという行為を継続しているにすぎないのだろうと、私にだって想像がついた。
 
が、それにしても、変な泣き顔だった。
大人が思うような、誰もがさもありなんと分かり切った悲しさなどないのだとでも言うかのように
彼は真顔で泣き続けた。
 
その子供の泣き顔によって、悲しい、泣きたい、という
これまで知っていると思っていた感情の輪郭が捉えられなくなって
困惑する青年の物語がその場で生まれてきた。
なぜか、ブルーブルーというタイトルもその場で浮かんだ。
 
ただ、その事実ははっきりと思い出せても、その瞬間の瑞々しい感覚は、なかなか思い出せない。
 
感情の喪失への不安なんて、もはや感じないのではないのだろうか。
人は年老いていくごとに、感情を覚えないことに慣れていくのではないのだろうか。
 
そう思って、その時座っていたカフェのテラス席から周囲を眺めると
感情なんてどこにも転がっていないのではないかと思えた。
並びに座る、Surfaceと1時間以上向き合っているサラリーマン、
一所懸命に参考書をめくる大学生
たびたび足を組み替えながら本を読む女性
誰も、くすり、ともしなければ、しんどそうな顔をするわけでもない。
 
若者たちが集まる場所、例えばこの間久しぶりに歩いたセンター街だって
ずいぶんと薄っぺらい笑いばかりが交わされていて、分かれた途端にすぐに無表情にリセットされる。
 
開放的になりそうな飲み屋にいったって、ゲラゲラとアホみたいな笑い声と
会社のグチばかりが聞こえて、あとは死んだように眠って電車に揺られる男たちが残される。
 
これで主人公が感情の発露を探して何らかの旅に出る物語は書けそうだ。
行きつく先は、犯罪じみた人体実験か、新興宗教か、芸術か(つまりこれらは紙一重だということだ)
どうやったら彼が救われるのか、30を超えた今の私には、まだ思いつかない。
 
でも実際のところ、都市ってこんなにのっぺらぼうだったっけ。という疑問もあるのだ。
当然のことながらそれぞれの家の中に入れば、幸せな笑顔はあるだろうし、
電話が鳴った途端、本を無表情に読み続ける彼女の相好も崩れるだろう。
けれど、もっと自然に都市の中で生活することはできまいか、と思うのだ。
 
均質化する都市問題というのもあるだろうし、
都市機能の分化がもたらす影響もあるだろう。
 
時に、京都の観光地を回る日本人の表情を観察したことがあるだろうか。
多数に関して言えば、恐ろしいほど薄っぺらい。
感動なんてまるでそこにはないかのようで、気持ち悪くて帰ってきてしまったことさえある。
観光地で余暇を過ごす時ですらそうなのだから、日々の生活はさもありなん、となると
これは都市設計の問題なのか、日本人の問題なのか。
 

ボルドーのブルス広場に、水の鏡、というスペースがある。 

www.tripadvisor.jp

 

街の中心、ブルス広場に作られた公共空間でありアート。
水の鏡という名の通り、広場に湛えられた水が、街の建物をその水面に映し出す。
その水面で、子どもはもちろんのこと、大人たちもみな思い思いに遊ぶ。
 
 これはアート性を除いて議論をすると、ただ広場の一部を若干低くして、水を溜めただけだ。
すごくシンプルに、人の心を動かしている。
感情を呼び覚ますのに、アキュレイトでありさえすれば大した仕掛けは必要ないということだ。
 
だからといって主人公の彼に、新たな都市計画に挑まれても、物語としては全然面白くないので、
新興宗教にもDVにも走らず、シンプルなきっかけを発見して、
ハタと気づいてもらう結論を考えなければならぬ。
ただ思い出せるのは、そのハタと気づいた瞬間に彼を満たす心境を
「ブルーブルー」と、私が表現したということだ。
きっとベタに空でも見上げていたに違いないが、彼の心は間違いなく瑞々しい何かで満たされたはずだ。
 

 

シビックプライド―都市のコミュニケーションをデザインする (宣伝会議)

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