#6 富士山の七合目で見えたもの

今年も富士山に登る季節が近づいた。
台風の襲来をくぐり抜けて予定通り、今年2回登れば、もはや14回の登山となる。
 
富士山は特別かと問われると、確かに特別だ。
悔しいかな、特別なのだ。
 
富士山にはじめて登ったのは社会に出てからのことで、それ以来すっかり山に登るのが習慣になった。
気が付けば「位置エネルギーの無駄な消費に過ぎない」と否定していたスキーすら始めるようになり、
すっかり「山づいた」。
泳ぎはしないまでも、海を眺めることも相変わらず好きだったが、
やはり山にたびたび訪れるようになってから、海の見え方も変わったように思う。
もしくはキューバで見た、カリブ海のおそろしく美しい海を見てから変わったのかもしれない。
いや、おそらく25歳の時に見た富士山のご来光が最も私が自然とこの世の中を見る目を変えたように思う。
 
何ということはない、晴天に恵まれたいつもの御来光だった。
景色が美しいだけならば、他の年の御来光の方を紹介したいところだが、
あの時私が気付いたのは御来光の美しさではなく、
昇った太陽の光があっという間にこの世を照らしていく、その朝の一瞬の出来事の素晴らしさだった。
 
何とも筆舌に尽くしがたいのだが、冷たい夜の帳が次第に明るさを取り戻し始め、
ゆっくりと空の青が薄まっていくと、とうとう太陽が雲海から頭をのぞかせる。
ここで富士登山客たちは万歳三唱となるわけだが、世界で起きることはその後がすごい。
 
始めは皆が感動の目で見つめていた太陽のひとかけが、
びっくりするくらいあっという間に全ての姿を現すと、すぐに人の目では直視できないほどの明るさとなり、
あれほどに冷たかったあたりの空気はぐんぐんと温度を上げていく。
御来光を待つ間に冷え切って震えのとまらなかった私の体を、拒みようのない力強さでじわじわと温めていくのだ。
もう少し夜と昼の狭間の感傷に浸っていようと登山道わきにしゃがみ込んでいた私を、
否応なく「昼」の世界へと引きずり込む力強さは、暴力的にすら感じられたほどだ。
 
これがこの星の根源的な節理なのだと恐れ入るしかなかった。
幾度となくこの世は太陽が昇り沈むことを繰り返し、それが生命を生み、
私たちの暮らす「世の中」を作り上げるに至った。
世界中にあふれる太陽信仰も、さもありなんと納得した。
これこそが何物にも代えがたいあらゆるものの源であり、
高校の頃、クリスマス礼拝のキャンドルサービスで感じた、ほの暗い講堂の中の明るさと温かみなど足元にも及ばない。
刹那的な美しさはキャンドルサービスの方が上回るかもしれないが、
しかしそういったものを超越する、絶対的な「美しさ」があるように思えた。
世の中とはかくあれかしと、我々の与り知らぬところで定められているかのようだ。
 
私が「自然」と凡庸に呼んでいたものの実像を自分の中でつかみかかった時が、まさにこの時だった。
忘れもしない、富士の須走登山道の七合目での出来事である。
 
富士山を登り切った達成感とも、頂上に立つことの感慨とも関係ない、
純粋に、自然というものと(たまたま)向き合った結果だと、私は勝手に思っている。
 
たまに、夜も明けきらぬころから車を出して
じわじわと夜が明けていく風景を眺めるに、この時のことを思い出す。
喜びや安堵や恐ろしさややるせなさがない交ぜになった感情が襲う。
 
言っておくが、富士山に登ったくらいで人生は変わらない。
ただ、それまで知ることのなかった感情の存在を知るという、大いなる変化はある。
気付くか気付かないか、いや、見ようとするかしないかは、本人次第だ。
 
とりあえず、私が見たものを誰かにも見てほしいと思って、でもあまり期待はしていないが、
今年も2回、富士山に登る。